仕方がないから生きている~養老先生の目的や理由を当てはめない生き方
本物と上質を求める大人のためのアロマテラピーサロン「アロマテラピー&リラクセーション Shinoa」のブログにお越しくださってありがとうございます。
まだまだ残暑が厳しいので、過去形にするのは抵抗があるのですが、今年の夏は本当に暑かった!
体調を崩されたお客様も多かったし、私もほとほと疲れました。
四季の変化への耐性も含め、最近は自分が衰えていっていることをひしひし実感します。
私は、昨日より今日、今日より明日、前進することを善とし、頑張ることを善として生きてきました。
無為に過ごす時間は命の浪費だと教えられてきました。
しかし、ここ最近、気持ちが体を叱咤激励しても、頑張りが効かないのです。
以前は、何らかの理由があって、「ここが痛い」「あそこが辛い」という症状が出ました。
しかし今は、何もしていないのに、朝起きたら、「ここが痛い」「あそこが辛い」が発生しているのです。
一体どうして?と心が萎えます。
やらないといけないことは山積しているのに、その山のふもとで座りこんでいるのです。
前進を善しとするのであれば、これは忌々しきことであり、自分の価値を揺らがせることになります。
そんな今、養老孟司さんのエッセイが心に響きました。
人が生きる理由とは
人はなぜ生きるのか、と問われることがある。
物事にすべて理由があるとは限らない。
理由を語ることのできる物事と、できない物事がある。
しかし現代人は、「理由のないもの」にのみ違和感を抱くようだ。
この歳まで生きてきてつくづく思うのは、世の中がどんどん都市化して、街になったということである。
街には理由のないものは存在しない。
目に入るものにはすべて、何かの目的や理由があり、それがわかるようになっている。
<中略>
人間は自らの周囲を「理由のあるもの」で埋め尽くしてしまった。
そんな環境に暮らしているから、当然、人生にも理由があるはずだと考えてしまう。
「理由のないもの」をできる限り放り出した現代社会を、私はかつて「脳化社会」と批判した。
頭に重きを置き、脳が化けた社会は今も増幅している。
<中略>
人はなぜ生きるのか、という問いへの答えも同じだ。
人間は、仕方がないから生きている。
昨日も生きていたから、その続きで生きているだけである。
私たちは、「世の中にあるものにはすべて何らかの意味があるのだ、と考える癖がついて」いるのだという。
死ぬのも生きるのも自然であって、私たちはその前で「仕方ない」ということをうけいれるしかない。
「仕方がないから行きがかりで生きているのは、人間だけではない。
動物も昆虫も植物も、みんな行きがかりだ。
樹木は生えてしまったから仕方なくそこにいる。
我々は生きているから死ぬまで生きるほかないのである。」
今日という時間を有意義に過ごせるかどうかで自分を評価しなくていい。
自然の中で暮らす一個の動物して生きていればそれで大丈夫なのだと、頑張れなくなった自分の背中をトントンと叩いてくれるような養老先生のお話でした。
全文を読みたい方は、以下から。
ヤマケイ文庫『養老先生と虫』
「山と渓谷オンライン」